toddler’s diary

以前は研究にあまり関係ない雑談・2023年4月から本を通じた自分の振り返りやってます

藤田五郎「演習本位 新和文独訳」第三書房 1951

第二外国語をドイツ語に選んだのは、なんか英語に似ていて楽そうという単純な動機でした。英語すらまともにできないのにという気がしないでもないですが、東大教養ではこの第二外国語の成績というのがかなり大きなウェイトを占めていて、第二外国語を落とすことが留年の大きな理由の一つになっていたと思います。今はどうなのでしょうか。

 

手元にあるこの本は 1981 年発行の第40版も重ねているすごい本ですがさすがに今は絶版になっているようですね。本を開いてみるとところどころ書き込みはあるので、多少は勉強したんだと思いますが、全く記憶にありません。

 

ドイツ語は結構面白かった印象ですが、いかんせんレベルが高すぎてテストではほとんど点が取れませんでした。確か進振りのときも1つの評定がドラ(D)だったと思いますが、平均点合格でなんとか黒マジ留年は免れ応用物理に進学できた記憶があります。ちなみに今は黒マジというのはないようですね(紙の発表じゃなくなったので等価なものはあるかもしれませんが)。

 

語学の授業というのはだいたい朝一で、教養時代は日吉に棲んでいた私は東横線の殺人的な混雑に耐えながら通学した記憶があります。日吉は慶應に進学した従兄が住んでいた日吉台学生ハイツという巨大な寮みたいなところで、部屋はベッドや机は作り付けの洋室で、部屋にはとても小さなシンクがあるだけで、風呂は大浴場、キッチンとトイレは階ごとに共同でした。ただ、寮の管理は運営会社によって行われていたので快適ではありました。駒場寮とかもサークルの友人のところに何度か泊まりましたが、あれは寮というより教室に寝泊まりしている感覚でしたね。従兄以外にも高校の同級生で東大や慶應に進学した友人が3人くらいいました。2年の秋に小石川の下宿に引っ越しましたがその話はまたいずれ。ちなみに日吉台学生ハイツは2016年に閉館したそうです。

 

ドイツに出張したりすることも多くて、実際旅行では少し役に立つことはありました。オランダ語もドイツ語の仲間みたいなので、かなりなじみはよかったです。とはいえ、学校の頃勉強したことの99%は忘れています。

 

修士の入学試験の第二外国語もドイツ語で受けましたが、できたかできなかったかすら忘れてしまいました。